grudzień 2021

Myōchin armorer 明珍甲冑師

my High-grandfather (Grandmother’s grandfather)
48th Myochi-Muneyuki、armorer, in Himeji in Japan.
I’m his Great-great-grandson.

As nowadays Myochin Family the adopted child, who is also adopted, is doing fire chopsticks and swordsmiths as a successor.
When I was a child my grandmother used to tell me many family stories , so I know that the (48th generation) Muneyuki’s truly blood-related are now only three person , myself, my mother, and my grandmother.She told me ,my High- grandfather lived 103 years. It seems that there were also words : „the best armorer in Japan” and „if not Myochin , not an armorer”.
To be sure , I have checked the family register at the Materials Section of Himeji City Hall and ask them to give me a family tree, which I have it now.
Blood is thicker than water and, so want to remember and cherish the flow.
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僕の高祖父 姫路の甲冑師 明珍百翁宗之
明珍火箸考案者の明珍紀ノ太郎宗之(27代宗之、始祖宗徳より48代目)
僕の祖母(喜多みやゑ)の祖父です、僕が玄孫になります。
幼少期に祖母からよく明珍やご先祖様の話を聞いていました、103歳まで生きたと聞いております。「日本最高の甲冑師」「明珍にあらずんば甲冑師にあらず」と言う言葉もあったらしいです。
今の明珍は養子のまた養子さんが後を継いで火箸や刀匠をやっていますが、(48代目)宗之の本当に血の繋がった人間は今現在では自分と母と祖母の3人になります。姫路市役所の資料課で戸籍を調べて、家系図を出してもらってますので確かです。 血は水よりも濃し、流れを大事にしたいです。

26代底次郎宗明で江戸から播州姫路に移った。以後27代紀ノ太宗之,その子28代 寅次郎宗秀と続いた。
27代紀ノ太郎宗之は明治維新まで酒井家 (忠邦)に召抱えられたが, 維新後は甲胃不要となり,そのため経済的な理由によって専から火箸や置物を作り始めた。
尚, 27代紀ノ太郎とは中興の祖宗介 より数えてのことであり,始祖宗徳より数えると48代目となる。紀ノ太郎宗之は廃藩後,五軒町に移り製造所を野里に設けた。 28代宗秀(始祖 宗徳より49代目〉は明治20 (1887)年 46歳で没し、27代目宗之は孫 酉次〈酉次は宗秀 3人娘 長女の婿養子であり、没後31代目となる〉 と共に姫路市域北村の中伊伝居村にて,伝来の甲宵鍛冶を応用考案創作して,姫路工芸品として知られる明珍火箸の鍛冶元として活躍した。
火箸造りが始められたのは宗之の奉公時代のころであり,今から約160年以上も前のことである。現在約10種類におよぶ火箸が残っているが,それらは宗之の創意工夫によるものである。その後 30代宗之(始祖宗徳より数えて51代目〉の四男で明珍鍛冶師の理 氏が追加考案して 約25種類の製品がある。
27代目 宗之〈始祖 宗徳より 48代目〉は 明治44(1911)年 11月16日 数え103歳で往生した 。

姫路の自分の母、喜多冠翔(憲子)(冠翔流 宗家)方の祖母(喜多みやゑ)の母 要するに私のひい祖母が明珍まつゑです(48代目宗之の娘)。
まつゑは 姫路藩の喜多伝八の二女の喜多クノの養子になり喜多藤吉と結婚して 祖母の喜多みやゑが生まれました。
紀ノ太朗宗之の妻の名はアイと聞きます(祖母の祖母)

12世紀、近衛天皇に鎧と轡(くつわ)を献上したところ「音響朗々光り明白にして玉のごとく、類いまれなる珍器なり」と賞賛され、褒美として「明珍」という姓を授かった。
室町時代、戦国時代は関東を拠点に移し、武田信玄や豊臣秀吉、伊達政宗が着用した鎧兜なども手掛けている。
江戸時代には、江戸に本家を構えながら徒弟制度を確立して、日本全国の大名のもとに弟子を派遣した。そのため、北は青森の弘前、南は薩摩まで明珍家の甲冑師が活躍していたそうです。

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Artykul o Soke Ogawa we wloskim magazynie- Samurai Magazine.
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